東京生まれが熊本で…

「東京生まれのお前が熊本でなんばすっとかい?」
13年前、熊本にiターンしてきた私に親戚から浴びせられた言葉である。
同じように13年前に国立から熊本に来たアナウンサーの通称キムカズの番組に故郷東京の話を投稿した時に思い出した言葉だったので、書いておく。(まさにWEBLOGである)
私は昭和43年に東京の東村山に生まれた。当時親父は建設屋の設計技師で日本全国を飛び回っていたが、俺が生まれるのに合わせて転勤のないJA系列の不動産管理会社の仕事に転職した。
俺は子どもの頃から登校拒否をしていた。正確には登園拒否からである。保育園の頃相当なワンパクだったそうで保育園から退園勧告をされ、自主退園させられたのを機に、家庭内での早期教育がはじまり、小学校に入った時には既に2年生の勉強をしていたらしい。勉強がつまらないので学校に行ったフリして遊びまわり親を騙したり、パニック症のようになって学校を休んでいた。ある日「お前ズル休みしてんじゃね~よ~」とどっかのガキや近所の大人たちに言われて完全な登校拒否になった。別に虐められたとかではないんだけど、そこまで言われると反発の気持ちもあってか学校が余計に嫌いになった。
話を戻そう。
そんな俺を親父は毎年夏になると熊本に帰省がてら連れて帰って来てくれていた。熊本は楽しかった。どこへ行っても俺が登校拒否児だなんて誰も知らない。みんな平等に扱ってくれていた。雄大な阿蘇のロケーション。緑がまぶしい水前寺公園。おじさんの会社の保養所があった百道(福岡&今は人工ビーチなどで見る影も無くなっている)など本当に九州は楽しい思い出の地だった。
俺は12歳の頃には引き篭もりになって、バイクを乗り回すようになった。バイクはもちろんちゃんと買ったものだ。親がくれた小遣いで買った。今考えれば甘いけど親のせいではない。私が自分に甘いのだ。
いわゆる素行不良児として当時の担任によってレッテルが貼られ東村山の教育史上初と言う登校拒否による留年をした。教育委員会では私の対応策として、児童相談所の指定した施設への入所か、児童相談所への定期的な訪問のどちらかを選択するように迫られた。もちろんバイクはダメ。
親父は泣きながら俺を怒った。親父の涙をはじめて見た。俺の中で何かが音を立てて崩れた。金色の文字がついたド派手なツナギを燃やし、怪しい無線やバイクも処分した。元々単独でしか行動しない素行不良児だったので他にトラブルと言えば溜まり場で毎日喧嘩を売られること以外は問題なかった。なんだか私はどっかのグループの登竜門に勝手にさせれていたらしい。
俺は更正をさせられるため熊本の厳しい親戚に預けられた。東京にいる時にここの従兄弟には力ずくで言うことを聞かされたことがあった。私は元々喧嘩を売られない限りは手を出さない、真面目ないい子であった。だからされるがままにその虐めに耐えた。絶え続けていたけれど、ある夏お袋が東京の病院で入院したことを聞かされた。マザコンな俺は家出をした。東京に向かって。貯金を全部降ろしたけどブルートレインでは途中までしか帰れない。そこで大時刻表を買って鈍行を乗り継いで帰ることにした。途中で金が尽きたら歩いて帰るつもりで。結局東京駅についた時、お金は10円だけ残っていた。当時の国鉄乗車券は23区内すべての駅で下車できるようになっていたのでそのまま行ける所まで行ってどうにか家に帰りついた。行程48時間はかかっただろうか。食べたのは広島駅で買ったメロンパンだけである。
その時、15歳。
みごとに親戚縁者全員の怒りをかった俺は「一族からの勘当」を言い渡された。その後は、東京で自由気ままに生きてきた(いや、これはこれでかなりの出来事があったんだけどね)わけだが、ある日親父は定年になった。その頃には俺と親父は反発しあうことも減り、親父の田舎である熊本の話をすることが増えた。親父も寂しいという気持ちがあったんだろう。
当時はバブルの絶頂期で東村山の家の前に住んでいた人は坪300万円で土地を売り練馬に家を建てた。それに誘発された俺は親父にも「高いうちに売っていいところに住もうぜ」などと悪魔の囁きをしていたんだな。翌年バブルは崩壊をはじめ坪単価が280万円を切った時、親父はその俺の囁きに同調し、熊本に引っ越すという選択肢を選んだのだ。結局売れたのは翌年となり更に地価は下がって坪140万円程度にまで落ちていた。22歳の俺はといえば、やはり女のことで失敗して東京に未練はなくなっていたんで一緒に熊本に来たわけだが、先の言葉を浴びせられ我の過去の行いに気がついたのである。
そんな熊本も14年目。
早いもんだな。

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