コメントをいただきましたみなさまありがとうございました。この場を借りて御礼申し上げます。


一昨日の朝、母が亡くなり通夜。そして昨日葬式を家族葬で行いました。

一切をお願いしたところには「家族葬」ということでお願いしてあったのですが、死亡届けを出したことで役場の方で勝手に新聞に掲載(本来は載せないように強く要望しないとこのようにされてしまうそうです)されてしまったそうで、親戚以外にも町長はじめいろいろな方々に来ていただくという結果となりました。

母を静かに送り出してやりたかったので、まことに失礼ではありましたが親戚のみなには事情をお話し告別式のみ参加していただきました。

新聞に掲載された以外のすべての予定は葬儀社の方のリードにより問題なく済みました。互助会というシステムについては疑問は確かにありますが、電話一本ですべての事柄をスムーズにしてもらえることと、追加となる料金を先に提示してもらえること、また最初から最後まで(今後も)同じ方がサポートをしてくれることなど不安を少しでも安らげもらえるようにしていただけることなどを考えると決して高いものではないなと思いました。

告別式では、やはり涙をおさえることはできず涙が枯れるまで出てしまいました。それは親父やいろいろと面倒を見てくれていた家族も同様です。今は気が張っているから親父も落ち着いていますが、数日したら現実の寂しさが出てくるでしょう。私や家族も同様だとは思いますが。その時こそ「家族のチカラ」が大事になってくると思います。

25年の闘病生活と言ってもいろいろな思い出があります。

私が14の時、やんちゃだったために更生のため熊本に預けられている時でした。その時期に母の病気が発症。その後私は熊本から脱出し東村山に戻りましたが、母の状態は好転することもなく、何もしてやれないことで苛立ちがピークに達したことも生半可な数ではない。それは私も家族も同様。ただ本人が一番辛かっただろうと思います。

何度かの危機を乗り越え(文字にすると簡単だな)、4年ほど前だったか危篤に陥ったことがあった。ある意味その時のことが「ある日突然電話がかかってくるだろう」という心構えをさせていたのかもしれない。

それまでは月に一度外泊をさせるようにして家に連れて帰っていたわけだが「病院には帰りたくない。家にいたい」という母の悲痛な言葉に息が止まり呼吸をするのも忌々しいほどになり何度も胸が張り裂けるような思いになったこともある。

母との最後のドライブは真っ白く巨大なリンカーンでした。

「元気になったら八幡の婆ちゃんの墓に行こうな」と話をしていたのは現実にはなりませんでした。

初七日は既に葬式の時にしたので、七日ごとの法要があります。もちろん毎日自宅の祭壇で供養を続けるわけですが、特に五七日(三五)と満中陰(四九日)は重要。明日か明後日にはその打ち合わせもあるでしょう。仏壇も近日中に知り合いの業者から購入します。たまたま前に買ったお墓も後は墓石の手配だけです。

四十九日が過ぎたら、親父と八幡の婆ちゃんの墓前へ報告と、お袋の思い出の皿倉山へ登山してきます。また母が病気になる前に一番の友人であった東村山のおばさん(住所も名前も知りません)のところに母のことをいつか報告に行こうと思います。

そうそう。「忌中セールス」なるものがあるそうです。

今、家の玄関には「忌中」という紙を貼ってあります。これは本来四九日の間は張るそうですが、この忌中セールスのために、最初から張らなかったり初七日で剥がすそうです。

中には「線香を上げさせてください」と上がりこみ、仏壇や香典返しや墓地などのセールスを半ば強制的に行うのだそうです。新聞の死亡広告、忌中の張り紙をみて行うので実質防ぎようがないそうです。

また、大きい法要などの際には自宅を確実に空けてしまうため、空き巣被害への注意も必要ですが、またそれに対しての警備会社のセールスもあるそうな。

家は元もとセキュリティもあるし、葬儀後のいろいろな手配も済んでいるのですべて断りますが、私がいない時がちょっと心配です。